あれから一年経ちました。
ハッスル君 ご機嫌
アンドゥ君 相変わらずやってます
福島への旅
「東日本大震災」あれからもう1年経ったのですね。
ブログでのご希望もあり、自分の心の区切りと言うか、福島の方に分かってもらえたらと思う気持から去年のあの日を振り返ってみました。
3月11日
最初にニュースを見た時はそんなに大きな被害があるとは思えず、「エッ死者が出ているんだ」と言うぐらいの報道から始まったと思います。
時間が経つにつれ、「とんでもない事が起こってしまった、何をどうしたらいいんだろう」、「落ち着いて、とにかく落ち着いて」と自分に言い聞かせながら、どういう援助の仕方があるだろうかと考えました。
というのも阪神淡路大震災の時、何も援助も手伝いも出来ず、「隣の県なのに」とただ指をくわえて見ていた自分が情けなくて、物凄く大きな後悔として心の中に沈んでいたのです。
とにかく行動を起こさねばと思うのですが、現地の状況が分からない。
心当たりをあちこち電話を入れてみるのですがつながらない事が多く、つながっても「来てはいけない、こちらには来たら駄目、道路は通れないし彼方が危ない」と、自分で何とかするからと支援どころかこちらの身を案じてもらう始末で・・・。
どうしようもなく外部への連絡手段、このブログへ思いを込めて書き込みをしました。
皆さんが広めて下さったお蔭で、引退馬協会の沼田会長より電話連絡を頂き「本当に行ってくれるのか、業者でも駄目なのに本当に大丈夫か」と言われ「大丈夫です」と応えてみたものの福島県の南相馬とは思いもよりませんでした。
もちろんそれまでは野馬追の事など名前すら知らなかったのです。
沼田会長から正式に依頼があり現地で救出の世話をしておられる国分さんをご紹介頂き携帯電話での打ち合わせをさせて頂きました。
現地の状況は。
ガソリン、軽油の輸送と移動手段に使う燃料が無い、暖をとる灯油が無い、食料が無い、出来れば捨て犬を世話しているのでドックフードも欲しいとのことでした。馬の餌だけは豊富にあるとのことで一安心。
では18日に出発しますと約束をしてクラブに帰りスタッフに「福島県の南相馬に馬を連れに行くので一緒に行って欲しい」と依頼するも20キロ圏ぎりぎりと分かると怪訝な顔をするので何か嫌な予感。
嫌な予感的中で次の日スタッフが「獣医が南相馬の馬など連れて帰ったら放射能汚染されていて今いる馬でさえ今後何年も試合にも出れないし、放射能の影響はクラブ全体に与える影響は計り知れない」、「そんな所に行くのは勇気ではなく馬鹿だ」と家族のものに言ったものだから、さあ大変。
家族は「絶対に行かせない、クラブを潰し、今いる子(馬)達を殺すつもりか」と親会社まで電話を入れて絶対阻止の構え。
そうとは知らず会社に帰ると従業員みんなも血相を変えて「絶対行っては駄目、私たちを見捨てるのか」と物凄い抗議、説明しようにも「放射能を持って帰ってどうするんだ」と取り合ってもらえない。
これはまず風評の方を無くさないと連れても帰れないし福島の馬達は全て移動も出来ない、飼育も難しいのではと引退馬協会の沼田会長に相談する
沼田会長がすぐに農林水産省に手を打って下さり、農林水産省の方が言った方を突き止め「そういう問題は無いですよ」と諭して下さって。
農林水産省の見解として「大丈夫」とご返事を頂けました。
その返事を家族に持ち帰り行かせてもらえるように説得、「嫌がっているスタッフはかわいそうだから私ひとりで行く、とにかく行かせて欲しい、放射能の方は農林水産省の方が解決してくださった」と、とにかく私の言語能力のある限りを使って説得しました、でもどんなに言っても目に見えない物、説得力に欠けます。
そんな中 長男が「一人で行かす訳には行かない、僕も行く、一人の運転より二人の運転の方が疲れは半分だろう」と言ったものだからお婆ちゃんが大変。
「跡取りまで居なくするつもりか」ともう行ったら生きて帰れないようなものの言い方。
そうでは無い、生きて馬を連れて帰るから行くんだと、死にに行くんではないと、
・・今こうしている時も人が誰も居なくなった馬小屋で馬達は不安な時を過ごしているんだと説明していたら不覚にも涙が出て声が出なくなり、「絶対に生きて帰るから」というのが精一杯でした。
ここまで来たら疲れたのと諦めが出てきだしたのとで、もう仕方ないかと言う雰囲気になって来たので一気に畳み込みました。
家族はOK、後は会社。
次の早朝から説得、放射能と農林水産省の件を説明、「絶対に生きて帰るから」とここでも一点張り。
みんな半ばあきらめ顔、大変な労力・・・、馬より人間の方が難しい。
説得に成功してから買出し。
とにかく燃料が欲しいとの事、知り合いに頼みドラム缶を売ってもらう、ガソリンスタンドを転々として数百リットルを確保、違反なのであまり書けないですがこれが一番の苦労でした。
食料、ドックフードなどは難なくクリヤー。
知り合いがティッシュペーパーをダンボールで3箱頂けそれも詰め込み 人の温かさに感謝でした。
19日午後8時にやっと出発。
太平洋側は駄目だろうから日本海側から入ろうと新潟県に向けて出発、明け方新潟に到着、遠い。
路肩に雪・・・、うっかりしていました、こちらはまだ雪があっても不思議ではない季節、これから山越え、どうしよう。
高速は使えないと看板が出ていたし、行きはいいけど馬を積んでの帰りはどうしようともう難関。
高速の最後のドライブインに着くと検問車やら警察官の方がこちらに入れと誘導されドキドキ、とんでもない物(燃料)乗せてますので見られたくない。
ただ支援物資だったら高速を使わせてくれるとの説明があり書類に記入。
支援物資を見せてくれとの警察官の方の依頼・・・・・・。
パン・米・インスタントラーメン・ドックフード・ティッシュペーパーなど馬運車の前に積んでいたのでそこを集中的に説明。けど警察官の方の目は後ろのドラム缶へ・・・・、確かに見られたと思ったのですが、「食料ですね、帰りは馬を積んで帰られるのですか、ご苦労様」と言って下さった。
日本の警察バンザイ。捨てたもんじゃない。
それから山越え、ここも遠い、下道だったらどんなに時間がかかったか考えただけで恐ろしい。
地震の被害はあまり無い様、地すべりが一箇所と道路のつなぎ目がおかしい位。
近くに来ているだろうと思い国分さんに電話。でもまだ「一時間以上かかりますよ」との事、高速の出口と待ち合わせ場所の打ち合わせをして「早よ、急げ」
コンビニで待ち合わせをしたのですが、そのコンビニ 普通に営業していました。「アッ被害はあまりなかったんだよかった」と思い数人のボランティアの方とお話し。
その内のお一人の方がガソリンが無いのでという事で一缶入れて・・。
サアッ馬を積み込みに出発。
「チョット時間がかかりますよ」とは言われていたのですが、いくら走っても着かない、4時間半ほどは走ったかな。
途中にはパトカーが止まり入ってくる車を見ている、距離を走るにつれお店が閉まっていて人気が少なくなってくる。
さすがに体が震えてきた。
私はかかとを骨折していてまだ完治していなくて走れなかったので 長男に「何かあったら私は走って逃げれないのでお前だけは走って逃げろ、ワシにかまってて一緒にお陀仏は嫌だから」と言ったのですが、本当にほっといたら怨んで出てやると本気で思ったものでした。
着いた頃にはお店は全て閉まっていて人気が無い、信号が点いてはいるが必要ない位の車しか通っていない。
無人の不気味さ。
燃料を下ろし最初の馬が居る所へ(3箇所に分かれて待っていました)。
途中 避難のバスとすれ違いました、3台目は半分ほどの人、前2台はいっぱいだったのに、全員脱出を肌で感じる出来事です。
無人のビル郡、野良になった犬がウロウロ、映画のセットのようです。
馬小屋に着いたのですが家の人も周りの家も無人、国分さんと国分さんのお兄さんが手伝って頂けてとてもあり難かったです。
2軒目も3件目も同じ状態でした、途中で余震があり私はビックリしたのですが国分さん兄弟は黙々と作業、なれている感じです。
着いた時に、「帰るときは放射能測定を保健所がしてくれるから、私が先回りをして頼んでおくよ」とボランティアの人が言ってくれていたので「馬もお願いしますね」と頼んでおいたのですが(放射能測定で放射能は問題ありませんと保健所の方が太鼓判を押していただければ風評なんか怖くないですものね)どうなったかなと保健所に到着。
ボランティアの方が走ってこられ「いくら頼んでも動物は駄目と言って聞いてくれない」との事、クソーお役所仕事め、測定器はふる活動しているわけじゃないんだから空いた時に量ってくれてもいいだろうに・・・。
こうなったら。
馬運車の中に居る5頭の子(馬)達に「この中でもし一頭でも放射能を被っている子(馬)が居たらみんな同じ放射能汚染させてしまうかも知れないけど、みんな僕の手で隅々まで触らせてな、これしか方法が無いんだごめんな」とみんなに「ごめん、ごめん」とつぶやきながら頭の先から蹄底、肛門まで全て触ったのですが、みんなビクリともしないじっとして、サマー君なんかは震えてる。
(馬とは本当に不思議な生き物です、人間よりもある所は優れているのかも知れないとよく感じる事があります)
全て手に付けて放射能測定器へ、まず手。
何も反応なし、よかった・・・それから頭から下へ下へ、「足の裏出して」と言うので蹴り上げるようになりましたら「失礼な、向こうを向いてつま先を立てて」と言うのでその通りにすると測定器を靴底に・・・「この人汚れてます」と大声、どちらが失礼なのか。
「どうすればいいの」と聞けば外の水溜りで洗ってきてと言うので言うとおりにするとOK。汚染されていませんと言う証明をくれました。
これで馬達も大丈夫、長男はどこにも放射能は付いていませんでした。
夕方遅く帰路へ。
まず高速まで出るのに迷いに迷いやっと 到着、途中では燃料を入れようとガソリンスタンドに長蛇の列が出来ていました、数キロですよ。
高速に入る前にみんなに水をと思いバケツで飲ませようとしても飲まない。
高速に入ってからも水を飲ませようと挑戦したのですが飲まない。
これは早くクラブに連れて帰らないと弱ってしまう、そうでなくても遠いのにと・・・。
ノンストップの運転交代だけで帰ってきたのですが、二晩寝て無いので頭が変になり道に迷う迷う。
ジッと見ていたら中央の線が浮いてくるし、雨はバケツでうつす位降るし・・でも雨は歓迎でした、放射能がかかっていても洗い流してくれると思い嬉しかったのを覚えています。
21日朝の4時30分到着、無事帰れたのを心から感謝しました。
みんなも怪我も無く馬房に入ると水を飲み、餌を少しずつですが食べてくれ、情けない顔ですが少し笑ってくれた様な・・・。
少しずつ思い出しながら書き込んでいるのですがあの時の恐怖と希望、苦しさと喜び。昨日のように思い出されて来ました。
一年経った今、福島の子(馬)達は病気も怪我も完治しとても元気に過ごしています。
みんな自分の仕事をわきまえて、人間と共存し、自分が働いた事で自分が食べていける、そしてその中で人間の喜びも自分の喜びの一部にして、楽しい毎日を送っていく・・。
家の子(馬)達はみんなそういう子(馬)達です。
でも数頭、譲渡していただく前から助成金をもらっていた子(馬)達をそのままにしているので仕事が出来ない子(馬)がいます、この子(馬)達にも仕事の喜びを知って欲しいのですがどうしても助成金が邪魔をします。
一年経った今、この子(馬)達に生きる喜びと充実感を持たせてやっていただけないでしょうか。
人を乗せて「見てみろ、すごいだろ」と得意げに走ったあの顔をずっと見ていたいのです。
太田 保
今、馬たちが幸せそうに日々を過ごしているのは、オーナー様の「諦めの悪い性格」のおかげと、「馬たちを連れて帰る」という強い信念のおかげですね。
当時、別ルートで「獣医が根も葉もない風評被害を出しているから信じないように」という記事をどこか(忘れた)で読みました。
お互いがお互いの立場で説得しあった心中もお察しいたします。
いろんなご苦労がありながらも無事に岡山に到着し、今現在の日々をブログで拝見していると、「本当によかった!!ありがとうございます!」とボキャブラリーの少ない私はそれしか言えませんが、一年経った馬たちが
唇でパパパパ言って遊んだり(何を言ってるのか未だに不明・・・)
自分あてのりんごだと分かるとまんざらでもない態度をしてみたり
自分の居場所で穏やかに幸せそうに暮らしているのが全てですよね。
そして骨折されてた時期って去年のこの時期だったんですね・・・
状態のよくない中、心身ともにぐったりしながらの輸送、無事に帰られて今更ながら胸をなで下ろす思いです。
改めまして、本当に本当ーにありがとうございました。
これからも人馬一体での幸せをお祈り申し上げます。
コメント有り難うございます。
人の、馬の不幸はどこにあるか分からない、突然に降りかかって来る事がありますね。
それでも前を向いて生きなければならない、福島の子(馬)達が教えてくれた事です。
さくらさん、カタリア君もう大丈夫ですよ、カタリア君が好きでたまらない子が今日から仕事に入ります。